惜別 ピート・ローズ

 野球は米国伝来のスポーツである。1944年(昭和9年)米大リーグ選抜チームが来日。小倉球場を含む全国12球場で日本選抜チームと親善試合を行い野球人気は列島を駆け巡った。同年12月、大日本東野球倶楽部、のちの巨人軍が誕生した。

 このとき大リーグ選抜チームへの参加要請を拒み続け、最後の最後にメンバーに加わったのが、かの野球王、ベーブ・ルース。主催の読売新聞社職員が米国に出向きルースに直談判。「とっとと帰れ!」と突っ返したルースだったが、自身の顔がでかでかと描かれたポスターが差し出されると破顔一笑。根負けして判を捺したという逸話が残る。もしもこのときルースが日本に来ていなかったらーー。歴史は少しばかり変わっていただろう。

 終戦後、米大リーグチームの日本遠征は秋の恒例行事となり、数多のスター選手が日本のグラウンドに立った。ミッキー・マントル、ジャッキー・ロビンソン、ウィリー・メイズーー。のちのレジェンドたち。錚々たる顔ぶれにあっても私のなかでナンバーワンはひとりしかいない。シンシナティレッズの二塁手、ピート・ローズこそは「ルースの再来」だった。

 1978年秋の日米野球で初来日。クラウチングスタイルから放たれる広角打法、果敢に一塁をまわりヘッドスライディングで二塁を落とし入れる姿に日本中が熱狂した。「チャーリー・ハッスル」のあだ名どおり、米大リーグのスピードとパワー,それにエンターテイメントを体現したただひとりの選手だった。

 晩年は「堕ちた英雄」そのものだった。 1989年、野球賭博により永久追放処分となったこと。イチローが2016年にローズの持つ通算安打記録を抜き「世界新記録」を達成した際に心ないコメントを寄せたこと。訃報に接し新聞各紙、辛口な評伝を寄せる。間違いではない。私もローズに大いに失望し憤慨したひとりである。ただ、やはり、何度でも言いたい。あんな選手は後にも先にもいなかった。
 
 大谷翔平がことしも超人的な活躍を見せ、本塁打、打点の二冠を達成。その偉業を各紙見開きで大きく報じた。同じ紙面の片隅にローズの訃報が載った。1978年秋。後楽園球場。長髪をなびかせ背番号14が宙を舞ったあの日から約半世紀。歴史は続いてゆく。チャーリー・ハッスルに真紅の花束を。

文・奥瀧隆志

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