惜別 中西太

 もう少し早く生まれていたならーー。プロ野球にはそう思わせる歴史がある。語り継がれることで光り輝く時代がある。この目で見ることが出来たなら。見果てぬ夢。私にとってのそれは昭和31年から33年の西鉄ライオンズ日本シリーズ三連覇である。

 九州の貧乏球団が巨人を下し頂点に立つ。この痛快事。分けても三連敗のあとの四連勝となった33年のシリーズは今なお語り草である。投のヒーローが稲尾和久。そして打のヒーローが中西太だった。

 史上最強チームの四番打者は史上最大飛距離の本塁打記録を持つ。昭和28年のある日の大映戦。本拠・平和台野球場のスコアボードのはるか上空をこえた打球は場外に消えたという。その飛距離、実に162メートル。私はこの球場を訪れるたびにスコアボードを見上げレジェンドを感じた。つまり「中西太」はいつも空想のヒーローだった。

 昭和44年、36歳で現役引退。その後、ヤクルトでヘッドコーチ、日本ハムで監督、そして阪神で監督。ここでようやく私の「リアルタイム」となった。江本孟紀から「ベンチがアホやから」と罵倒されるなど監督としてはいささか分が悪かった。本領はヘッドコーチ。そして打撃コーチ。後年は近鉄、そしてオリックスで仰木彬監督との二人三脚で日本シリーズを制したことは記憶に新しい。

 平成30年、夏の甲子園100回記念大会で始球式を務めたシーンが思い出される。高松一高のOBとして。85歳の野球少年の投じた球は山なりながらもミットに吸い込まれていった。

 九州では「太(ふとし)」という名がポピュラーだと聞く。ヒーローの名を我が子に名付けるーー。そんなエピソードが浮かび上がる。プロ野球は親から子に受け継がれる。瞳を閉じると快音が聞こえる。


文・奥瀧隆志


追記:私の亡き父は阪神の球団創設期からのファンで広島での試合によく足を運んだ。試合前のティー打撃練習での中西コーチの若手選手への熱血指導の様子を後年までよく語った。本日の訃報に接しふと思い出す。野球とは父と子の心のキャッチボールである。

写真① ヤクルトコーチ時代。昭和57年の対巨人オープン戦。徳山市野球場にて撮影。

写真② 平和台野球場のスコアボード。昭和56年撮影。この上空を打球が突き抜けたという。右脇には「麻生セメント」の広告が見える。

写真③ 筆者が高校二年生の頃に所属した「西鉄ライオンズ研究会」特製のステッカー。中西太監督時代の球団旗があしらわれている。



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