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 野球は米国伝来のスポーツである。1944年(昭和9年)米大リーグ選抜チームが来日。小倉球場を含む全国12球場で日本選抜チームと親善試合を行い野球人気は列島を駆け巡った。同年12月、大日本東野球倶楽部、のちの巨人軍が誕生した。

 このとき大リーグ選抜チームへの参加要請を拒み続け、最後の最後にメンバーに加わったのが、かの野球王、ベーブ・ルース。主催の読売新聞社職員が米国に出向きルースに直談判。「とっとと帰れ!」と突っ返したルースだったが、自身の顔がでかでかと描かれたポスターが差し出されると破顔一笑。根負けして判を捺したという逸話が残る。もしもこのときルースが日本に来ていなかったらーー。歴史は少しばかり変わっていただろう。

 終戦後、米大リーグチームの日本遠征は秋の恒例行事となり、数多のスター選手が日本のグラウンドに立った。ミッキー・マントル、ジャッキー・ロビンソン、ウィリー・メイズーー。のちのレジェンドたち。錚々たる顔ぶれにあっても私のなかでナンバーワンはひとりしかいない。シンシナティレッズの二塁手、ピート・ローズこそは「ルースの再来」だった。

 1978年秋の日米野球で初来日。クラウチングスタイルから放たれる広角打法、果敢に一塁をまわりヘッドスライディングで二塁を落とし入れる姿に日本中が熱狂した。「チャーリー・ハッスル」のあだ名どおり、米大リーグのスピードとパワー,それにエンターテイメントを体現したただひとりの選手だった。

 晩年は「堕ちた英雄」そのものだった。 1989年、野球賭博により永久追放処分となったこと。イチローが2016年にローズの持つ通算安打記録を抜き「世界新記録」を達成した際に心ないコメントを寄せたこと。訃報に接し新聞各紙、辛口な評伝を寄せる。間違いではない。私もローズに大いに失望し憤慨したひとりである。ただ、やはり、何度でも言いたい。あんな選手は後にも先にもいなかった。
 
 大谷翔平がことしも超人的な活躍を見せ、本塁打、打点の二冠を達成。その偉業を各紙見開きで大きく報じた。同じ紙面の片隅にローズの訃報が載った。1978年秋。後楽園球場。長髪をなびかせ背番号14が宙を舞ったあの日から約半世紀。歴史は続いてゆく。チャーリー・ハッスルに真紅の花束を。

文・奥瀧隆志
 アン・バレンタイン・ポップアップショップ「わたしだけの眼鏡と出逢う二日間」開催目前となりました。思いがけず台風が近づいてきていますが、現時点では開催の予定です。

 「安全に外出できる環境にあること」を念頭において今後の台風の動向を見ながら開催の可否をお知らせいたします。いまのところ「神のみぞ知る」です。

 なお、商品700点は明日当店に入荷してまいります。

 来たる8月31日(土)9月1日(日)の両日、宇部市浜町のカフェ&ギャラリー「GLYCINES(グリシーヌ)」にてAnne et Valentin(アン・バレンタイン )」のポップアップショップ(眼鏡受注会)を開催いたします。

 一昨年8月に同所で開催し、おかげさまでご好評をいただきました。その後アンコールのお声もたくさんいただき、今回二回目を開催の運びとなりました。

 アン・バレンタインは当店リニューアル2年目の2016年より多くのお客様にご愛用いただいておりますフランスのブランドです。NHK「世界はほしいモノにあふれてる」眼鏡編で一躍有名となり、女優の石田Y子さんがプライベートで着用されたことでも密かに知られています。
 ジェンダーを問わず、年齢やシーンを問わずお使いいただける、日常に溶け込むオシャレ感と掛け心地の良さはこのブランドにしかない個性です。

 フランス本国では全ての眼鏡店の2%にあたる340店舗でのみ取り扱われ、ここ日本ではわずか100店舗でしか販売されていないプレミアムな存在です。山口県では当店ともう一店のみが取り扱っております。
 
 今回は日本総代理店「グローブスペックス」完全バックアップのもと、アン・バレンタインの眼鏡、サングラス700本を展示する全国的にも超プレミアムな展示会です。会場となるグリシーヌはフランスにゆかりあるカフェ&ギャラリー。雰囲気は最高です。ご自由に掛けて、写真を撮って、楽しんでいただく二日間。皆さまに楽しんでいただけるようベストを尽くします。メインキャラクターは今回もkozi69!明日から各地でポストカードを配布いたします。皆さまのご来場をお待ちしております。


■■大切なお知らせ■■
※展示商品は全てサンプルです。受注生産のため3週間〜2ヶ月程度お日にちをいただきます。ご注文頂いた眼鏡は「おくたき」にてお渡しします。
※ 当日、フレーム/サングラス代金の半額を御預かり金としていただきます。クレジットカード、現金が可能です。
※商品到着後、「おくたき」にて検眼させていただきます。ご遠方の方のために当日の検眼も可能です。配送も承ります。
※誠に申し訳ございません。同業他社の方の参考見学はご遠慮願います。


■■event■■
①アン・バレンタイン日本代理店「グローブスペックス」よりエグゼクティブマネージャー服部雅人さん二日間来場。お気軽にお声掛けください。
②HOYAビジョンケアカンパニーより新田啓夫さん二日間来場。女性のためのレンズ相談会を開催。「見え方」「見られ方」。いま貴女にいちばん必要なレンズをご提案いたします。もちろん男性も!
③アン・バレンタインのユーザーでもある世界的に有名な画家、Motoko Oyamadaさんの超大作をバックグラウンドに展示。もちろんGLYCINES(グリシーヌ)も!カフェにてアン・バレンタインの故郷フランスにちなんだメニューが登場。二日間限定です。



わたしだけの眼鏡と出逢う二日間 2e Etage
アンバレンタイン・ポップアップショップ@GLYCINES
とき:8月31日(土)9月1日(日)11:00〜18:00
ところ:GLYCINES 宇部市浜町2丁目12-39 聖仁会ビル(旧田中外科)3F
TEL:0836-39-9656/MAIL:glycines@arts-life.com
主催:めがねとけいは おくたき
TEL:0836-21-6257/MAIL:info@octaki.net 

誠に勝手ながら4月21日まで「店主不在での営業」となります。営業スケジュールを以下にお知らせいたします。

月曜日から金曜日の平日は「店番」が対応させていただきます。眼鏡、時計の知識はありませんので販売はできません。修理品、電池交換もお受け出来ませんが、60代男性と30代女性との世間話をお楽しみください。11時から17時の短縮営業です。

日曜日は当店スタッフの「妻」が対応させていただきます。眼鏡、時計の「お取り置き」を承ります。眼鏡のご試着ももちろん大丈夫です。修理品、電池交換についてはお受け出来ません。10時から18時までの営業です。

土曜日、13日、20日の両日を「店休日」とさせていただきます。

もうひとつの非常事態「HOYAビジョンケアカンパニー」のサイバー被害によるレンズ製造休止により多くのお客様にご迷惑をおかけしております。全員の方が「HOYAさんの営業再開まで待ちましょう!」と言ってくださり涙の出る思いでした。待った甲斐があった!と喜んで頂けますようベストを尽くします。

ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いいたします。

他店ご購入の眼鏡の調整について (ルール改訂)
 ご旅行先やネットで購入された「新品眼鏡」のお顔への調整のご依頼が増えてきました。私の腕を見込んで来ていただくのはたいへんうれしいことですが問題点が多々あります。

 これまでは有料でサービスを行ってきましたが今後は行わないことにいたしました。理由について少しお話いたします。

①フィッティング(お顔への調整)の難易度の高いフレームが増えてきた:お顔の骨格にもともと合わないものは調整のしようがありません。鼻あてを改造する必要が往々にしてあります。また、調整には破損や変形のリスクが背中合わせで付いてきます。当店ではその責任を負えません。

②フレームの材質によっては、特に安価なフレームはそもそも調整が不可能:詳しくは述べません。
 
 当店では海外ブランドを多数取り揃えております。仕入れの際に、なかには日本人の骨格に合わないフレームを見ることがあります。そのような商品はきほん仕入れを行っておりません。また鼻幅が広いフレームはアジア仕様にカスタムして出荷していただいております。どの商品も快適な掛け具合が得られるように、一品一品を手に取ってよく確かめて仕入れを行い品揃えをしております。調整をご依頼されるフレームの多くはこうした点において不適応なものが多いのが現状です。
  
 お客様が購入された眼鏡屋さんによっては「調整は地元の眼鏡屋さんにしてもらってください。お店によっては無料でやってもらえますよ」と仰られたという声もよくお聞きします。正直なところこれは眼鏡屋さんの無責任です。そしてフィッティングはどこの眼鏡屋でも同じクオリティが得られるものではありません。
 
 たいへん恐縮ですが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。なお、当店でお買いになられた眼鏡の調整はいつでも無料で承ります。お持ちになられる件数が少なすぎると感じるのが現状です。ご自身では問題ないと思われても、必ず直すべきところがあるのが眼鏡です。お気軽にご来店ください。

追記:ご愛用のフレームへのレンズ交換につきましてはご相談ください。
 ユーピーアールスタジアム(宇部市野球場)の人工芝化が発表されたのが昨年12月1日。4月のお披露目に向けて敷設工事の様子が「宇部日報」で公開された(1月23日)〓写真①〓。

 昔はプロ使用の野球場でも芝の管理が難しく、地方球場ともなると「ハゲだらけ」。どこまでが内野でどこからが外野だかわからない有り様だった。今では技術も進み、グランドキーパー方々の努力もあり、米大リーグにも匹敵する美しい天然芝が日本各地の野球場で見られるようになった。米大リーグではドーム球場にあっても天然芝ということが少なくない。

 それだけにーー。今回の宇部の人工芝化は時代の逆行と感じる。なにしろユーピーアールの天然芝は美しかった。


 野球場における人工芝誕生のストーリーはさながらアメリカンコミックである。1965年、テキサス州ヒューストンに世界初の屋根付き球場「アストロドーム」が誕生した。当初は天然芝。屋根はベージュ色のボードで覆われており、採光に問題はないとの触れ込みだった。 
  
 ところがーー。この「ベージュ色」がボールの色と同化し「外野フライが見えづらい」というクレームが選手から噴出。これではいかんと慌てて屋根の色を塗り替えたところ、こんどは芝生がみるみる枯れてしまった。泥縄式に生まれたのが人工芝。その名も「アストロターフ」である。
 
 写真②は1966年敷設の様子をとらえた貴重な一枚。遠征してきたフィラデルフィアフィリーズの看板選手、ディック・アレン〓写真③〓の発言が伝説として語り継がれる。「この芝生を馬が食べなければオレはここで野球をしないからな」。


 日本初の人工芝野球場はご存知、後楽園球場(1976年)。二番目は阪急西宮球場でここは当初外野のみだった(1978年)。選手の膝や腰に負担がかかり故障を誘発することは誰の目にも明らかだったが、利益優先からのちに誕生する野球場ではすべて人工芝が敷き詰められた。横浜スタジアム、西武ライオンズ球場、東京ドーム、福岡ドーム…キリがない。ファンのあいだにも「人工芝=近代的でカッコいい」という意識があったのも事実だろう。ようやく風向きが変わったのは2000年代に入ってからである。
 
 2000年、元より外野天然芝だったグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)が内外野天然芝化の先鞭を付けた。続いて2001年にサンマリンスタジアム宮崎(現ひなたサンマリンスタジアム宮崎)が誕生。そして2010年に開場したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の美しいグラウンドは衆目を集めた。
 
 米大リーグでは人工芝はとっくに姿を消し、2024年現在全30球団のうち人工芝球場を持つ球団はわずか2チームのみ。日本がいかに立ち遅れているかがわかる。

 ユーピーアールスタジアムの今回のお色直しにはいろいろな事情があることと思う。人工芝の性能の向上もあるだろう。ケチをつけるつもりはない。しかし、あの美しい天然芝と黒土のコントラストが姿を消すことはやはり惜しい。


 最後にオマケを。1978年当時の宇部市野球場のスナップ〓写真④⑤〓。外野フェンスに丸い穴が無数に空いているのがうっすらとわかるだろうか。建設時に「セメント不足」だったことから苦肉の策だった。「ズームイン!朝」でも地域の話題として採り上げられ、当時の原田球場長が出演。「外野へ転がったボールが穴に入ることはなかったんですか?」というリポーターからの質問への答えはーー。ご想像ください。

追記:昨年かぎりで引退されたユーピーアールスタジアムのグランドキーパー・福重誠さん、おつかれさまでした。我々に野球をありがとうございました。

文 奥瀧隆志



 八代亜紀さん(以下敬称略)が亡くなられたことへの世間の反響の大きさに驚く。それはテレビやネットから伝わる言葉よりも、むしろ周りの音楽仲間たちの肉声の方こそリアルに響く。そう言えば五年まえに宇部でのライヴレヴューをsnsにあげたところ「おいおい、どうしてオレを誘わなかったんだよ」とお叱りのメールが三通ばかり届いた。入り口や捉えかたはそれぞれ違えども、あの声、あの吐息に多くの人々が魅了されていたということだろう。

 予定外の休みとなった本日。八代亜紀の生きた証を一目見たいと思い立ち、防府市へとクルマを走らせた。


 学問の神様として知られる「防府天満宮」。その一角に八代の代表曲「なみだ恋」の歌碑がある。作曲者で防府市出身の鈴木淳が前宮司の弟という縁で2020年に建てられた。除幕式には八代も列席し「なみだ恋」を歌った。
 昭和の時代、多くの演歌/流行歌手がそうであったように八代もなかなか芽が出なかった。「なみだ恋」はデビュー3年目1973年の4作目のシングル。作詞はのちに鈴木の妻となる悠木圭子。二人の愛の結晶とも言うべきこの歌と出逢い、八代はスターへの階段を歩みはじめる。
 
 夜の新宿/裏通り/肩を寄せ合う/通り雨

 寄木細工のようにピタリとはまる七五調の歌詞は読むたびに情景を鮮やかにする。七七調に形をかえるところがスパイスであり、ここに極上の言の葉がちりばめられる。

 逢えばせつない/別れがつらい(1番) 
 冷たい風が/二人を責める(2番) 
 何故か今夜は/帰したくない(3番)

 歌碑を読んでいくうちに、うるうるしてしまい、あぁ、これはいかんと周りを見渡すと、同じような面持ちで見つめる老夫婦がいた。「いい人だった」「惜しいね」。今度はもらい泣きした。

 2019年の宇部公演では東京在住で当店のお客様でもあるSさんが企画に携わっておられた。積み木のようにコンサートを作りあげていくワクワク感をお福わけしていただいた。当日は二階ど真ん中の「特等席」を用意していただいた。隣の席にはSさんのお友達で品のよい女性が来られしこたま照れたり嬉しかったり。あの日を思い出す。


 防府から帰宅後、本日もうひとつのイヴェント。宇部市松島町のライヴハウス「BIGHIP」へ。友人の森本哲也がロックアレンジで八代亜紀を歌うインプロビゼーションに立ち合った。もとよりソウルのグルーヴを持つ「おんな港町」の他、よい歌と演奏。「舟唄」のダンチョネのパートは力感に溢れていた。

 歌は世につれ、世は歌につれーー。ほこりをかぶった昭和ワードがふと頭に浮かぶ。時代はやがて終わりを告げる。しかし歌は人々の心に生き続ける。八代亜紀は最後の瞬間まで時代と共に生きた。過去の人となる辛さを誰もが感じはじめている。

文・奥瀧隆志


※2016年3月7日付コラムの一部を引用しました。
 Yesterday's legends, tomorrow’s heroes

 押入れのみかん箱から取り出した「アサヒグラフ」が遠い夏の日の記憶を呼び覚ます。甲子園大会が終わり一週間後に発売される特集号。今年の表紙は誰だろうーー。発売日の夕刻、部活を終え、藤中野球部のユニフォーム姿のまま近所の石川書店へと自転車を走らせる。
 B4版見開き一枚でみせる情景描写。勝敗を決した瞬間をとらえた心理描写。ものすごい集中力で読み耽った記憶が今も心のどこかにある。

 引越しのときに映画のパンフレットが出てくるとつい没頭して作業にならないとはよく言われるが、甲子園雑誌もそっくりそのままである。とりわけ強く印象に残っているのは中学生の視線でとらえた高校生のヒーローたち。つまりは先輩たち。昭和53年から55年にかけての甲子園大会に今なお畏敬の念を抱く。

 大阪・PL学園が初優勝した昭和53年60回記念大会を収めた一冊がここにある。何年周期かでふと手に取りパラパラとめくり、ピタリと手が止まるのは、やはりこのページ、この選手である。
 高松直志。秋田・能代高校のエース。思い出のなかで生き続けるレジェンドその人だ〓写真①〓。

 右足を大きく頭よりも上にあげる。両腕までも天高くあげる。付いたあだ名が「星飛雄馬」。名将・尾藤功監督率いる和歌山・箕島高校と初戦でぶつかった。
 箕島・石井穀(のちに西武)との息詰まる投手戦。猛打で鳴る箕島の「黒潮打線」が高松を打ちあぐねた。被安打3、8奪三振1四球完投。しかし1回の立ち上がりにエラーがらみで与えたスクイズの1点、いわゆる「スミイチ」で敗戦投手となった。
 高松は高校卒業後、社会人野球の名門・電電東北(現NTT東北)に進み野球を続けたが、プロのマウンドに登ることはついになかった。


 あの夏から三年後ーー。高松と瓜二つな投球フォームが海の向こう米大リーグに現れる。ロサンゼルス・ドジャースの新鋭、フェルナンド・バレンズエラ〓写真②〓。メキシコ生まれの21歳。金太郎のような風貌でレスラーのような体幹。両腕を空高く突き上げ、右足を蹴り上げ、ついでに満点の星を見上げ、一気に放たれる豪速球で並み居る強打者からばったばったと三振を奪った。

 雑誌のなかでいち早くバレンズエラの特集を組んだのが「Number」。こちらは米国のスポーツグラフィック誌のスタイルそのままに「スポーツライター」の職業をこの国に確立した。ちなみに宇部では宇部興産本社道路向かいにあった元祖コンビニエンス深夜ストア「カンコー」が最初に取り扱った。


 時は流れて令和五年。破茶滅茶なフォームで豪速球を投げる投手はすっかり姿を消した。教科書にない投げ方は即刻指導を受ける時代。「ピッチャー、大きく振りかぶって」は死後となった。
 一方で選手の身体は時代とともに大きくなり、佐々木朗希(千葉ロッテ)やかつてのノーラン・ライアン(元テキサスほか)のように大きく足を上げてバネを効かせるパワーピッチャーも増えてきた。筆者にとっては息子世代ーーと言いかけてはたと気づく。ヘタをするとそろそろ孫の世代。みかん箱はどうやら玉手箱であったか。
 
 人々の人生のなかに野球がありレジェンドたちがいる。これからも変わることなく。途轍もないヒーローの出現をこの目で。


文・奥瀧隆志


追記・能代高校出身といえば、通算284勝の野球殿堂入り大投手、山田久志を忘れてはならない。そして秋田県出身というところでは、元日本ハムのツッパリ投手、工藤幹夫のリーゼント頭が目に浮かぶ。昭和53年の全国高校野球選手権秋田県大会は能代高校対本庄高校の対戦。高松と工藤の投げ合いだった。

 阪神タイガースの思い出のほとんどすべてに亡き父が登場する。昭和10年生まれで球団黎明期からのファン。大洋ホエールズを贔屓にしていた弟を、つまり私の叔父をタイガースファンへと“洗脳”したのだとか。叔父は今もその意志を継いでいる。親不孝な私は父に背いてドラゴンズファンとなった。

 広島での阪神戦に中国道をぶっ飛ばしてよく出かけた。開門と同時に球場入りし、試合前の練習を飽きもせず眺めた。勝てないチームをよくもあれほどまでに応援したものだ。黎明期からのファンがいつしか低迷期のファンになっていた。85年の日本一はともかくとして、その後の暗黒期といったらなかった。「ダメ虎」と揶揄された90年代。しかし、91年のシーズン、最下位が確定した9月に挙げた5試合連続完投勝利を観て、翌92年の「準優勝」を予見していた。つまり、野球というものをとにかくよく見ている人だった。

 写真①は2003年のダイエーとの日本シリーズ第1戦にて。9回ウラ一塁二塁。バルデスの放ったセンターへの飛球に赤星が飛びつくも僅かに及ばずサヨナラ負けとなった。苦虫を噛みつぶしたような表情の父。私もいっしょに悔しい顔をして親孝行をした。


 岡田彰布選手はよくサインを書いてくれた。往復ハガキ、サイン帳、色紙〓写真②〓。そしてチケット裏、年賀状までいただいた。今も昔も変わらぬ仏頂面で会話した記憶は一度もない。

 内角打ちの名人でスローVTRを観てはそのメカニズムに惚れ惚れした。晩年は阪神をお払い箱となりオリックスに拾われた。得意だった内角に腰が引けて往年の面影はなかった。自らの限界を悟るまで現役を貫いたことにこの人の美学があった。写真③は引退を報じる「週刊ベースボール」95年11月20日号。たったこれだけの三行記事。折しも「イチローフィーバー」と「がんばろう神戸」に沸いた一年。老兵は静かにグラウンドを去っていった。

 その後の監督としての実績はここに語るまでもない。オリックス、阪神両球団で二軍監督、一軍監督を歴任。ことし65歳。ベンチではときおり柔和な表情がのぞかせる。しかし、選手のまえに立ち、檄を飛ばすときの一人称は今も変わらず「オレ」であり、早稲田のキャプテンシーそのままに血潮を激らせる。背番号16を知らない世代の選手たちが一丸となって戦い抜いた。驚異的な強さだった。

 それにしても37年。途方もない歳月を思う。あの日あの時。数々のシーンが自分自身の人生と重なり合い、瞼に浮かんでは消えてゆく。父に叱られ、しばらく気まずくても、茶の間でナイター中継を観ているとすぐにまた父と子に戻っていった。野球は父と子のキャッチボールからはじまる。これからも変わることなく。

文・奥瀧隆志

※11月7日facebook、instagram掲載分をリライトしました。
※昨秋、監督就任記者会見の際に掛けていた岡田監督の眼鏡は当店取り扱いのベルギーのブランド「theo(テオ)」の“AGRIA”(アグリア)というモデル〓写真④〓。


ためになる無駄話をあなたにーー。来たる11月18日(土)宇部市浜町のレコード店「flowers of romance(フラワーズ・オブ・ロマンス)にて「宇部市民無教養講座」を開催いたします。

音楽のこと、アートなこと、宇部の街の移り変わりやこれからのこと。マニアックでありつつ、思わずメモを取りたくなる、総勢7組9名による講演会です。

オーディエンス参加型の講演会です。静粛になさらず、拍手、笑い、はたまた異議申し立てなど、ご自由に行ってください。テープレコーダーの持ち込みを固く推奨いたします。転換にはdj massie をはじめ、当世名うてのDJたちがグッドミュージックで秋の一日を彩ります。

同時企画として、今回の講演者のひとり、山陽小野田市のレコード蒐集家shin-san所蔵の来日ライヴフライヤー展を開催いたします。ポストパンクからオルタナティヴ・ロックまで。レコードジャケットとはひと味違うアートワークをお楽しみください。写真はその一例。フジロックがスタートするはるか以前のSMASH招致の強烈なラインナップ。ワープロ+手張りが時代を忍ばせます。

なお当日同ビル3階のカフェ&ギャラリー「GLYCINES(グリシーヌ)」ではクリスマスマーケットが行われます。※17日(金)〜 20日(月)開催の2日目。Aterlier Sympa(リース)ことり(小さな花束)まめのヒンメリ(ヒンメリ)hitotsuboshi(米粉クッキー)などなど。講演者のサイトウチヅルさんもオーナメントを出品。ぜひ3階へも足を延ばしてみてください。

主催:めがねとけいはおくたき×. flowers of romance
とき:11月18日(土)
ところ:レコードショップ「flowers of romance(フラワーズ・オブ・ロマンス」
〒755-0065 山口県宇部市浜町2丁目12−39 聖仁会ビル 1F 
コメダ珈琲の道路向かい/3Fに「GLYCINES(グリシーヌ)」の白いビル/北側の藤色の扉より入場
TEL 070-5303-6444(会場)/ 090-4575-0948(主催)


タイムテーブル
12:30開場
①13:30-14:00 massie & DJありがとう
②14:15-14:45 ナカジー
③15:00-15:30 kozi69
④15:45-16:15 ヒラタハジメ
⑤16:30-17:00 はるとゆき雑貨店
⑥17:15-17:45 shin-san
⑦18:00-18:00 谷川涼子&サイトウチヅル(GLYCINES)
18:30〜アフターパーティー

※講演時間は各30分、最大延長45分です。多少時間がズレる場合がございます。


 中日ドラゴンズで選手、監督として活躍した中利夫(なかとしお)氏が死去した。87歳。

 昭和40年生まれの我々には「高木守道より一つまえの世代のスター」。つまり既に引退した選手だった。「通算81三塁打」の記録だけはなぜかよく覚えていて、これは今なお破られていないセリーグ記録である(※現役最多は後輩の大島洋平の54)。
 昭和35年に盗塁王。昭和42年には王貞治をおさえて首位打者。「職人肌」で「巧打者」。のちのチームカラーの先鞭をつけたレジェンドだった。

 昭和52年オフ、与那嶺要に代わって監督就任。我々はここでようやくリアルタイム。しかし成績は振るわず、5位、3位、最下位と低迷。55年オフに更迭された。あとを受けた近藤貞雄が57年にセリーグ優勝とあっては分が悪かった。
 
 サインは昭和53年に広島市民球場でいただいた。当時、この球場では巨人以外のビジターチームのファンは数えるほどしかいなかった。私の青い帽子はかなり目立ったのだろう。試合前の練習を眺めていたら一軍マネージャーさんがフェンス越しに話しかけてくれた。
 「おや?うちのファンかい?珍しいな。よし、サインをもらってきてあげよう。ここで待ってな」。星野仙一、高木守道、谷沢健一、鈴木孝政ーー。最初のページが中利夫監督だった。

 その広島の地が中利夫の第二の故郷となろうとは夢にも思わなかった。昭和62年、広島の二軍打撃コーチとして招聘。平成元年からは二軍監督を務めた。前田智徳が中を師と仰いだことはよく知られている。「名選手、名監督にあらず」を覆した鮮やかな三塁打だった。


文・奥瀧隆志


※10月17日付でfacebook、Instagramに掲載したものを加筆しました。



 昭和40年男がパンクに目覚めた頃。セックス・ピストルズは既にいなかった。バンド解散から四年後、1982年のビクター盤「勝手にしやがれ」は既に古典だった。
 なにしろ情報量が少なかった。知りたいことは山ほどあっても知る術がなかった。だからライナーノーツを何度も読み返した。森脇美貴夫の名調子を今でもサラで言える。

 その82年盤ライナーノーツにウォーリー・ナイチンゲールという謎の男が登場する。ジョニー・ロットン加入以前、スティーヴ・ジョーンズがヴォーカルを取っていた頃のギタープレイヤー。つまりデビュー前に首になったということだ。

 面白い一文がある。「ウォーリーなる人物はのちのエルヴィス・コステロではないかと噂されたりもしたがコステロ自身がそれを否定した」。コステロには好迷惑だっただろう。このエピソードはその後も使い回され、ウォーリーを紹介する際のお約束事となった。裏を返せばそれ以外に何の取り柄もないウォーリーだった。「ナイチンゲール」というこれまた笑ける名前とも相まって究極のトリビアとなった。
 
 時は流れて21世紀もはや四分の一が経過。「ウォーリー・ナイチンゲール」は堂々Wikipediaにも登場する。そして今ーー。セックス・ピストルズのFacebookアーカイヴ・ページにはこんな鮮明な写真まで現れる。
 ど近眼な眼鏡をかけて小肥りで冴えないキャラをマネージャーのマルコム・マクラーレンはそうとう嫌ったらしい。よくわかる。ピストルズからはじき出されたウォーリーはその後どのバンドとも関わることはなかった。

 “Did You Know Wrong”のギターフレーズはウォーリーのアイディアだったと云われる。“God Save The Queen”のB面にこの曲が選ばれたことを知ったとき。ウォーリーの心境はいかばかりだっただろう。
 1996年5月6日死去。奇しくも翌月にセックス・ピストルズは期間限定再結成。現役時代にマルコムに搾取されたカネを自ら取り戻すべくド派手なワールドツアーを敢行。日本でも8都市18公演を行なった。

 今宵”God Save The Queen”を棚から取り出しB面に針を落とす。今まで気づかずにいた別もののセックス・ピストルズが立ち昇る。それで十分だろう。それでOKだろう。


文・奥瀧隆志


※2023年9月26日、facebook、instagramに発表したものを加筆しました。