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 昭和40年男がパンクに目覚めた頃。セックス・ピストルズは既にいなかった。バンド解散から四年後、1982年のビクター盤「勝手にしやがれ」は既に古典だった。
 なにしろ情報量が少なかった。知りたいことは山ほどあっても知る術がなかった。だからライナーノーツを何度も読み返した。森脇美貴夫の名調子を今でもサラで言える。

 その82年盤ライナーノーツにウォーリー・ナイチンゲールという謎の男が登場する。ジョニー・ロットン加入以前、スティーヴ・ジョーンズがヴォーカルを取っていた頃のギタープレイヤー。つまりデビュー前に首になったということだ。

 面白い一文がある。「ウォーリーなる人物はのちのエルヴィス・コステロではないかと噂されたりもしたがコステロ自身がそれを否定した」。コステロには好迷惑だっただろう。このエピソードはその後も使い回され、ウォーリーを紹介する際のお約束事となった。裏を返せばそれ以外に何の取り柄もないウォーリーだった。「ナイチンゲール」というこれまた笑ける名前とも相まって究極のトリビアとなった。
 
 時は流れて21世紀もはや四分の一が経過。「ウォーリー・ナイチンゲール」は堂々Wikipediaにも登場する。そして今ーー。セックス・ピストルズのFacebookアーカイヴ・ページにはこんな鮮明な写真まで現れる。
 ど近眼な眼鏡をかけて小肥りで冴えないキャラをマネージャーのマルコム・マクラーレンはそうとう嫌ったらしい。よくわかる。ピストルズからはじき出されたウォーリーはその後どのバンドとも関わることはなかった。

 “Did You Know Wrong”のギターフレーズはウォーリーのアイディアだったと云われる。“God Save The Queen”のB面にこの曲が選ばれたことを知ったとき。ウォーリーの心境はいかばかりだっただろう。
 1996年5月6日死去。奇しくも翌月にセックス・ピストルズは期間限定再結成。現役時代にマルコムに搾取されたカネを自ら取り戻すべくド派手なワールドツアーを敢行。日本でも8都市18公演を行なった。

 今宵”God Save The Queen”を棚から取り出しB面に針を落とす。今まで気づかずにいた別もののセックス・ピストルズが立ち昇る。それで十分だろう。それでOKだろう。


文・奥瀧隆志


※2023年9月26日、facebook、instagramに発表したものを加筆しました。
 英国のアーティスト、ジェイミー・リードが亡くなった。76歳。家族がSNSを通じて発表した(英国時間8月8日)。

 47年ロンドン生まれ。76年から78年にかけて、セックス・ピストルズのレコードジャケットやライヴフライヤーを手掛けたことで知られる。
 切り張りコラージュを得意とした。新聞紙から一文字づつレターを切り抜いて脅迫状のようなロゴを作ったり、女王陛下の肖像画に安全ピンを突き刺したり。リードのアイディアの多くはのちにパンクのみならずポップアートのセオリーとなった。
 もっとも日本ではピストルズ活動当時、リードに関する情報は何も入って来ず、名前さえ誰も知らなかった。87年に刊行された作品集”Up They Rise“でアートワークの全貌に触れ衝撃を受けた人は少なくない。
 
 89年には東京、大阪のパルコで作品展が開催。大阪のパンクスポットではどこもこの話題で持ち切りだった。フロアを何周もして作品を目に焼き付けた。ライヴフライヤーの原画など、あとで考えると破格のプライスで売りに出されていたことを今もなぜか悔しさ紛れに思い出す。

 昨夜から今日にかけて。facebookをはじめ各SNSにリードの作品がこれでもかと現れる。パロディも数多く、衰えぬ影響力のほどがうかがえる。
 宇部市のポップアーティストkozi69は数年前、非公開作品のなかでリードにオマージュを捧げた。kozi69らしいすっとぼけたテイストに我々は大いに笑った。
 “GOD SAVE THE QUEEN”のTシャツを親子二代で着続けた母と娘を知っている。ただのファッションアイコンに染まることのない強い意思表明をそこに見る。ジェイミー・リードとはそうしたアートだった。

 ピストルズのプロジェクトにリードを誘い入れたマルコム・マクラーレンは2010年に死去。マクラーレンの公私のパートナーでピストルズのステージ衣装ともなった”SEX/SEDITIONARIES“を創造したヴィヴィアン・ウエストウッドも昨年末に亡くなった。なんとも言えぬ寂しさに襲われる。と同時に、セックスピストルズの破格のかっこよさはこの三人によってもたらされたことを再認識する。
 
 リードがもしもいなかったらーー。”NEVER MIND THE BOLLOCKS”のアートワークをいったい誰が手掛けただろうか。確信を持って言えるのは、ずいぶんとつまらないものになっていたということ。ジェイミー・リードの功績を讃えたい。

文・奥瀧隆志

※8月11日にFacebook/instagramにポストしたものを加筆しました。

 プロ野球の期間限定ユニフォームをどうにも好きになれない。球史を紐解き、かつてのユニフォームを今に甦らせる試みはよしとしても、意味のないものが多すぎる。温泉ランドの館内着のようだったり、特撮ヒーローのコスチュームそのものだったり。刺繍に代わる「昇華プリント」の発明により、大胆なデザインが可能となり、いつしか「やった者勝ち」の風潮が生まれた。
   
 一方、海の向こう大リーグでは、頑なに伝統と格式を守り「刺繍のユニフォーム」をひとつの規則としている。「プリントユニフォームはマイナーリーグ、はたまたリトルリーグ」。つまり格下の扱いということになる。
 期間限定ユニフォームはこちらが元祖である。1990年代に入り、先達に敬意を表する「オールド・タイマーズ・デイ」が各球団で開催されるようになり、昔の復刻ユニフォームを着て試合を行うことがひとつの慣わしとなった。昨年2022年からは「シティ・コネクト」と呼ばれる新しい運動がはじまった。本拠地の「お国自慢」をデザインに盛り込んだ特別なユニフォームが登場する。いずれもしっかりとした理由づけがある。昨季、巨人軍が制作したヨージヤマモトデザインのユニフォームからはこの「理由」がまったく見えなかった。巨人軍の品位ではなかった。たとえばこれと同じ発想でニューヨークヤンキースがマーク・ジェイコブスデザインのユニフォームを身にまとうことなど絶対にありえない。
 
 そうしたワケでーー。オクタキは今回も恰好の標的を見つけてきたんだなと思われるだろうが実はそうではない。意外にもデザインがすこぶる良いと思わせる一着があらわれた。阪神タイガースこの時期恒例のイヴェント「ウル虎の夏シリーズ」2023年の新作である。

 虎の顔が後ろ前に描かれている。横から見ると斬新なラインに姿を変える。昇華プリントでしか出せない表現と感じる。注目は背面でサークルのなかに背番号が配される。実はこれを最初にやったのは米ヒューストンアストロズ。今なおファンの間で人気の高いレインボーカラーのグラデーションユニフォームが登場した1975年に一年間のみ使用されたものだった。宇宙都市ヒューストンにふさわしい、まさしく宇宙に通じるデザイン。

 ユニフォームは球団史であり、ファンにとっては自分史でもある。あの日のサヨナラホームラン。優勝を決めたあの日のクローザー。セピア色に変わることなく鮮烈な発色のままあの日あのときのユニフォームが心に映し出される。ずっと変わることなく誇りでありたい。

文・奥瀧隆志


※7月28日大幅に加筆しました。

 もう少し早く生まれていたならーー。プロ野球にはそう思わせる歴史がある。語り継がれることで光り輝く時代がある。この目で見ることが出来たなら。見果てぬ夢。私にとってのそれは昭和31年から33年の西鉄ライオンズ日本シリーズ三連覇である。

 九州の貧乏球団が巨人を下し頂点に立つ。この痛快事。分けても三連敗のあとの四連勝となった33年のシリーズは今なお語り草である。投のヒーローが稲尾和久。そして打のヒーローが中西太だった。

 史上最強チームの四番打者は史上最大飛距離の本塁打記録を持つ。昭和28年のある日の大映戦。本拠・平和台野球場のスコアボードのはるか上空をこえた打球は場外に消えたという。その飛距離、実に162メートル。私はこの球場を訪れるたびにスコアボードを見上げレジェンドを感じた。つまり「中西太」はいつも空想のヒーローだった。

 昭和44年、36歳で現役引退。その後、ヤクルトでヘッドコーチ、日本ハムで監督、そして阪神で監督。ここでようやく私の「リアルタイム」となった。江本孟紀から「ベンチがアホやから」と罵倒されるなど監督としてはいささか分が悪かった。本領はヘッドコーチ。そして打撃コーチ。後年は近鉄、そしてオリックスで仰木彬監督との二人三脚で日本シリーズを制したことは記憶に新しい。

 平成30年、夏の甲子園100回記念大会で始球式を務めたシーンが思い出される。高松一高のOBとして。85歳の野球少年の投じた球は山なりながらもミットに吸い込まれていった。

 九州では「太(ふとし)」という名がポピュラーだと聞く。ヒーローの名を我が子に名付けるーー。そんなエピソードが浮かび上がる。プロ野球は親から子に受け継がれる。瞳を閉じると快音が聞こえる。


文・奥瀧隆志


追記:私の亡き父は阪神の球団創設期からのファンで広島での試合によく足を運んだ。試合前のティー打撃練習での中西コーチの若手選手への熱血指導の様子を後年までよく語った。本日の訃報に接しふと思い出す。野球とは父と子の心のキャッチボールである。

写真① ヤクルトコーチ時代。昭和57年の対巨人オープン戦。徳山市野球場にて撮影。

写真② 平和台野球場のスコアボード。昭和56年撮影。この上空を打球が突き抜けたという。右脇には「麻生セメント」の広告が見える。

写真③ 筆者が高校二年生の頃に所属した「西鉄ライオンズ研究会」特製のステッカー。中西太監督時代の球団旗があしらわれている。



3月のお知らせ
たいへん長らくお待たせしました。3月これからの営業スケジュールをお知らせいたします。
店休日は未定です。しばらくのあいだ、火曜日と土曜日が17時閉店となります。変則スケジュールにてご不便をお掛けします。
年明けから店主の体調不良が続いておりましたが、ようやく全開しました。もうすぐ春。楽しいこと目白押しです。どうぞよろしくお願いいたします。

たいへんお待たせいたしました。1月後半の営業スケジュールをお知らせいたします。まだ未確定ですが、29日(日)はお休みをいただく場合がございます。確定しましたらお知らせいたします。
日に日に寒さを増してきました。風邪にお気をつけて!

20(金)17時閉店
24(金)17時閉店
31(金)17時閉店
29(日)休日の場合あり ※決まり次第お知らせいたします。

当店は去る11月28日にリニューアルオープンから7周年を迎えました。これもひとえに皆さまのご愛顧の賜物と感謝の気持ちでいっぱいです。12月3日(日)より「創業大感謝祭」を開催いたします。

記念特別展として「エナロイド」のミニポップアップを開催いたします。今秋取扱いを開始した岐阜県中津川市のファクトリーブランド。とびきりに生地の美しいセルロイドフレームが自慢です。新作を含む50本をkozi69書き下ろしイラストと合わせて展示いたします。

他にもanne et valentin 、theo 、EFFECTORなど各ブランド2022-2023新作モデルがこれから随時入荷してまいります。ニューエストモデルをいち早くお試しいただくチャンスです。

11月27日はロックレジェンド、ジミ・ヘンドリックスの誕生日。生誕80周年を勝手にささやかに祝います。宇部市在住のジミヘン・コレクターでたこ焼き「浪速屋」の元店主、今年「たこ焼きキング」で華麗なる復活を遂げた小山賢一さんの秘蔵コレクションを店内に展示いたします。ウッドストックのチケット半券など。どうぞお楽しみに。※入場無料 12月3日(土)〜 12月18日(日)10時〜19時 

●12月3日(土)〜 12月25日(日)9:30〜19:00
●駐車場:店から西へ40メートル、ホルモン「こぷちゃん」道路向かい月極に3台。隣の敷地への駐車はくれぐれもご遠慮ください。
●コロナ感染予防対策:ご来店の際はマスク着用のうえアルコール消毒をお願いいたします。三密を避けるため入場制限となることがございます。眼鏡の下見、ご相談はフリーでご来店いただけますが、事前ご予約も承ります。

 村田兆治さんが亡くなった。9月の羽田空港での出来事がずっと気にかかっていただけに言葉にならなかった。

 ニュース、新聞でその功績が称えられた。右肘の故障から奇跡の復活を遂げた85年シーズンの活躍。引退後の少年野球の熱心な指導。数々の名シーンが映し出される。「サンデー兆治」、「昭和生まれの明治男」、そして「マサカリ投法」。多くの代名詞を残したスター選手だった。

 同時に思い出されるのは82年シーズンオフの「阪神移籍志願」の一件である。カクテル光線に鮮やかに照らし出されるセリーグで晩年の選手生活を望んだが夢は叶わなかった。FA制度も何もない時代。客席もまばらなパリーグで投げ続けた不屈の精神力、プロフェッショナリズムこそが、この人の真骨頂だった。

 写真は79年8月15日。対南海戦、大阪球場、試合前のブルペンでの一コマ。鬼気迫る剛速球を今も体がおぼえている。
11月のお知らせが遅れて申し訳ございません。店主、やや体調不良でしたが、ようやく回復してまいりました。明日からがんばってまいります。

店休日

10日(木)
30日(水)

ほかに数日お休みを頂く場合がございます。詳細は追ってお知らせいたします。


おもしろ画像は米大リーグ、ヒューストンアストロズの5年ぶり二度目のワールドシリーズ制覇を祝して。アストロズは今季ナ・リーグ最高勝率チーム。堂々たる勝ちっぷりでした。方や対戦相手のフィラデルフィアフィリーズはポストシーズンに駒を進めた全12チームのなかで最低の勝率。ルール改正で今季からシーズン2位の全チームがポストシーズン進出を許されることなり、いきなり番狂わせが起こったかっこうです。2位はしょせん2位です。勝者同士の真のぶつかり合いこそを見たいものです。


ヒューストンアストロズは1962年誕生。「世界8番目の不思議」と称された屋根付き球場「アストロドーム」の開場は1964年。のちには世界初の人工芝球場ともなり、アストロズの行くところに発明が生まれました。70年代末に採用されたレインボーカラーのユニフォームには度肝を抜かれたものです。

現・監督のダスティ・ベイカーはかつてのドジャースのスター選手〓写真②〓。ジャイアンツ監督を皮切りに29年間で5球団を渡り歩き通算2093勝は既にレジェンドの域。初めて優勝杯を手にして喜びを爆発させる様子が印象的でした。奥様は大谷翔平選手の大ファンなのだとか。



大変お待たせしました。今月これからのスケジュールをお知らせいたします。

「ご予約制」は一旦なくなりました。いつご来店いただいても大丈夫ですが、短時間の外出などありますため、出来ましたらお電話、メッセージにてご確認をお願いいたします。

過ごしやすい季節になりました。ハロウィンももうすぐ。あの人形も間もなくあらわれますよ。ご来店お待ちしております。

13(木)店休日
27(木)店休日
31(月)店休日
 ヤクルト村上宗隆選手が本塁打を50本の大台に乗せた頃からある心配が頭をもたげていた。プロ野球シーズン最多記録は同じくヤクルトのバレンティンが13年に記録した60本。当時も今も称賛されることのないこの大記録をメディアがどう扱うのかーー。心配はそのまま現実となった。
 
 64年に王貞治が記録した55本こそが日本記録だとする考え。外国人選手はあくまでも「助っ人」、出来れば記録はご遠慮願いたいという思いが露骨に見える。
 現場もそうだ。タフィ・ローズ(大阪近鉄)が01年に王の記録に肉迫した際、敬遠攻めにあったことは今なお記憶に新しい。ローズの55本もバレンティンの60本も「見なかったことにしておこう」ということらしい。

 ところ変わって米大リーグではことしも大谷翔平選手が大活躍。「二刀流」として1918年のベーブ・ルース以来となる「同一シーズンでの10本塁打以上と10勝以上の達成」を讃えられた。「大谷は日本人なので参考記録。ベーブ・ルースこそが世界記録」と報じたメディアはひとつもない。ファンからも異論は聞こえて来ない。

 いついかなるときもフェアプレイであること。野球の魅力であり、野球の在り方だろう。 「大リーグに追いつき追い越せ」ではじまった日本プロ野球もうすぐ100年の節目のときを迎える。紡いで来た歴史を正しく取り扱う責務がメディアにはある。「王貞治を抜き歴代2位となる大記録」となぜ言えないのだろうか。それでは称賛に値しないだろうか。

大変お待たせしました。8月のスケジュールをお知らせいたします。

8月6日(土)7日(日)の両日は既報のとおり宇部市浜町の「GLYCINES(グリシーヌ)」にてアン・バレンタインのポップアップショップ開催のためお休みをいただきます。皆さまお誘いあわせのうえグリシーヌへお越しください。

他にもお休みをいただく場合がございます。その際はまたお知らせいたします。