タイガース日本一に寄せて

 阪神タイガースの思い出のほとんどすべてに亡き父が登場する。昭和10年生まれで球団黎明期からのファン。大洋ホエールズを贔屓にしていた弟を、つまり私の叔父をタイガースファンへと“洗脳”したのだとか。叔父は今もその意志を継いでいる。親不孝な私は父に背いてドラゴンズファンとなった。

 広島での阪神戦に中国道をぶっ飛ばしてよく出かけた。開門と同時に球場入りし、試合前の練習を飽きもせず眺めた。勝てないチームをよくもあれほどまでに応援したものだ。黎明期からのファンがいつしか低迷期のファンになっていた。85年の日本一はともかくとして、その後の暗黒期といったらなかった。「ダメ虎」と揶揄された90年代。しかし、91年のシーズン、最下位が確定した9月に挙げた5試合連続完投勝利を観て、翌92年の「準優勝」を予見していた。つまり、野球というものをとにかくよく見ている人だった。

 写真①は2003年のダイエーとの日本シリーズ第1戦にて。9回ウラ一塁二塁。バルデスの放ったセンターへの飛球に赤星が飛びつくも僅かに及ばずサヨナラ負けとなった。苦虫を噛みつぶしたような表情の父。私もいっしょに悔しい顔をして親孝行をした。


 岡田彰布選手はよくサインを書いてくれた。往復ハガキ、サイン帳、色紙〓写真②〓。そしてチケット裏、年賀状までいただいた。今も昔も変わらぬ仏頂面で会話した記憶は一度もない。

 内角打ちの名人でスローVTRを観てはそのメカニズムに惚れ惚れした。晩年は阪神をお払い箱となりオリックスに拾われた。得意だった内角に腰が引けて往年の面影はなかった。自らの限界を悟るまで現役を貫いたことにこの人の美学があった。写真③は引退を報じる「週刊ベースボール」95年11月20日号。たったこれだけの三行記事。折しも「イチローフィーバー」と「がんばろう神戸」に沸いた一年。老兵は静かにグラウンドを去っていった。

 その後の監督としての実績はここに語るまでもない。オリックス、阪神両球団で二軍監督、一軍監督を歴任。ことし65歳。ベンチではときおり柔和な表情がのぞかせる。しかし、選手のまえに立ち、檄を飛ばすときの一人称は今も変わらず「オレ」であり、早稲田のキャプテンシーそのままに血潮を激らせる。背番号16を知らない世代の選手たちが一丸となって戦い抜いた。驚異的な強さだった。

 それにしても37年。途方もない歳月を思う。あの日あの時。数々のシーンが自分自身の人生と重なり合い、瞼に浮かんでは消えてゆく。父に叱られ、しばらく気まずくても、茶の間でナイター中継を観ているとすぐにまた父と子に戻っていった。野球は父と子のキャッチボールからはじまる。これからも変わることなく。

文・奥瀧隆志

※11月7日facebook、instagram掲載分をリライトしました。
※昨秋、監督就任記者会見の際に掛けていた岡田監督の眼鏡は当店取り扱いのベルギーのブランド「theo(テオ)」の“AGRIA”(アグリア)というモデル〓写真④〓。


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